身土不二・一物全体

食物連鎖の終末に位置する人間

人間がヒトという動物であるからには、誰が何と言おうと、動きつづけなければ生きることのできない生物だ。動くために全ての生物は、外から「食物」をとり入れて活動源とし、それをエネルギー化する際にできた不要のものを、排泄するという働きをしている。

動物はもちろん植物も、つまりバクテリアやウイルスからコケ、シダ、松、 杉、ミミズ、ヒトに至る、この世の生きとし生けるもの全てで、この法則からはずれるものはない。

外からとり入れる「食物」は、植物の場合には、太陽光線と空気と水という無機物であり、動物は、植物が太陽エネルギーを、より効率のよい形に凝縮してくれた有機物を、ちょうだいして生きている。生産者である植物から出発する有機物(食物・排泄物)の流れは、第一次消費者である草食動物と、それを捕食する第二次消費者の肉食動物、さらに第三次第四時と、複雑なからみ合いを構成しながら、食物連鎖をつくっている。

そして地球表面のきわめて薄くてかぼそい、深さわずか30センチから1メートルほどの地上で、無機的自然と生物とが物質とエネルギーの循環というきずなによって、生態系という多元的な複合系を、日々新しく作りだしている。人間はこの連鎖の終末に位置し、ひたすらもらうばかりで、次へのバトンタッチを怠っている特殊な生物なのだ。

生物としての法則性に従う

人間は高次の精神活動を営む唯一の生物だが、この人間の活動の絶対必須条件を、ギリギリに煮つめて考えてみると、食(飲食)息(呼吸)動(身体活動)想(精神活動)の四つに集約できるはずだ。排泄や睡眠などという重要な事項も、この四つのどこかにまとめられるだろう。

この四つの条件と環境との相互のからみ合いが、人間の健康状態や病的異常の決定的条件だということを胆に銘じて考えてほしい。そして環境という要素が破滅的様相を呈してきて、入力源としての食物や空気の組成そのものに、個人の手にあまる重大なマイナス面がでてきている以上、私たちひとりひとりが、かなりの努力でこの四つの条件を、可能な限り正しいやり方で生きていく以外にはない。

正しいやり方とは、1500万年にもわたるヒトの歴史が作ってきた、生物としての法則性に従うことである。

食物の領域でいえば、木の実、穀類を主体とした雑食性や、直立二足歩行による骨格、内臓、頭脳の変化に伴う咀嚼器や歯の構造の法則であり、群れ生活に伴った共同の食事のとり方や、その地域の気候風土に応じたそれぞれの人種の適応性の原則などである。

これらの諸々相を考えに入れて、自然の法則性にしたがう規範を作ってきたのが、いわゆる「食養生」というもので、東洋医学では古くからもっとも重麗な分野と書れ、食養生を指導する「食医」は最高の地位にあった。

世界無比のすぐれた食養道

日本では、とくに明治羅新いらい近代文明の破滅の道を猛進するわけだが、その危険な破滅行への危機意識と、他方では軍隊の健康管理という矛盾した要因から、世界無比のすぐれた「食養道」が確立していった。それは高木兼寬(海軍兵食改良)、石塚左玄(陸軍薬剤監)、二木謙三、桜沢如一という系譜であり、いまでは世界各国数百、数千万の人々が、食養の原理を実践しており、それは地球を破局から救出する可能性を握るキーポイントにもなりつつある。
そして、食養の根本的な考えが身土不二、一物全体なのである。

心と体を、相互に変化しあう一つのものとして「身」でもって現わし、そこの地域の一切の生物と無機物の循環系を「土」とすれば、身土不二とは、身と土とが一体の「不二」のものだというエコシステム(生態系)の流動流転そのものを指す。自然と一体であり、自然によって生かされている人間の謙虚さの表現でもあるだろう。
具体的には、その土地でできる食物を、季節に応じて丸ごと全てをいただくということである。

私は国境をみとめないが、風土の違いによる人々の適応の変化は厳然としてある。私たちとエスキモー人の食生活を考えてもそれは明白であるし、日本人の小腸とヨーロッパ人とでは数十パーセントもの長さの違いがあるともいわれている。地域によって生理学的な違いや、植物学的な分布や成分が違ってくるのは当然なのだ。

食養道の大道を歩くことができない時代

冷静に現在の私たちの食生活を見るとき、これらの原則がメチャクチャに狂っていることが分かるはずだ。アメリカの麦やそばを食べ、カナダのししゃもや数の子を食い、場末の果物屋にまで赤道直下の果物が並んでいる。

だがこれらはまだ食物ではある。恐ろしいのは、劇薬の塩酸、硫酸に一昼夜もっけこんで、包皮むきの加工処理をしたミカンの缶詰めや、ジュース類や、石油からとった化学調味料や甘味料、防腐保存料などで薬づけにされた、もはや毒物としかいえない加工飲食品を、便利だから、美味しいから、きれいだからとつめこんでいる現状である。

一物全体の例を米にとると、日本人の大部分は外皮と胚芽を除去した白米、つまり澱粉質のみの「粉」しかとってはいない。生命力を育成するミネラルやビタミンのっまった「胚芽」を むざむざと捨てている。コメを食ってはいないわけだ。米の外皮である穀類の繊維が、掃除に使うオガクズや茶ガラと同じように、体内の有害物質の排池や成人病の予防に不可欠のものであることに、現代栄養学も最近やっと気づいたようだ。

野菜の皮をむき、葉っばを捨て、アクをゆでこぼすのも一物全体に違反している。だが場合によっては農薬の使用頻度の高い野菜の葉っばや皮は捨てなければ危険だし、輸入レモンやオレンジの皮を風呂に浮かべただけで、一家全員に異様な皮膚湿疹が出たことも報告されているのが現状である。

私たちはもはや「食養道」の大道をのんびりと歩くこともできない時代に生きているのである。




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