「発見の会」から快医学の発見へ

ここで私の自己紹介を兼ねて、「快医学」という発想やシステムが、どのようにしてできてきたのかを述べてみましょう。

私は1935年(昭和10年)2月2日、九州は若松という筑豊炭田から出た石炭を積み出しする港町で生まれました。気性は荒っぽいが、人情の篤い町でした。

石炭産業の壊滅した現在では、さびれておとなしいベッドタウンになっておりますが、私の子供時代は斬ったはったは日常茶飯事、人口7万ほどの小さな街に、遊廊 (売春街)が四つもあるようなところでした。

子供の頃から兄たちの影響で演劇や人形劇に親しみ、若松高校を卒業すると東京へ出て、印刷工をやりながら、舞台芸術学院という演劇学校へ通いました。

この学校は、気骨のある児童文学者・詩人として有名だった秋田雨雀先生が校長で、新劇運動発祥の地・築地小劇場を創設した演出家・土方与志先生が副校長というたいへん由緒のあるとこ ろでした。

私はこのお二人に魅かれ、お二人から何かを学ぶつもりでこの学校に入ったのです。そして 「自由」というものが、どんなにかけがえのないものかを教えてもらったようです。

舞台芸術学院を卒業後、土方先生が指導していた舞芸座という劇団の演出部に所属しました。演劇生活を歩みだしたのです。1957年4月、22歳のときです。翌年58年6月、土方先生が亡くなり、数年間は指導者亡きあとの舞芸座の立て直しに懸命でした。

その後、共産党系の人たちが分裂騒ぎを起こし、残った旧舞芸座のメンバーと、他のグループとが合併して64年2月に演劇集団「発見の会」というのができたのです。

さらに同年の暮れには、いろいろな問題から、四十数名で発足した発見の会は、旧舞芸座のメンバー七名ほどになってしまい、サバサバというか、やけのやんばちというか、よし、こうなっ たら、やりたい放題のでたらめのメチャクチャをやってやるぞと始めたのが「シアター25」という小劇場活動でした。

新劇というジャンルは、戦前からの古くさい体制や表現形式に縛られ、演劇の楽しみや快さなどが失われて久しかったのです。新劇の体制や縛られた形式を破壊して、演劇の真の楽しさを求 めての、新たな旅立ちでした。

時はちょうど、第二次世界大戦終結から二○年がたち、世界的規模で、学生を中心とする人びとの「反戦運動」や「異議申し立て」が湧き起こり、社会的・政治的にも激動の時代でした。

映画や美術や舞台などにも、世界的新しい運動や新しい実験が行われ、私たちの活動の励みにもなっていました。

1965年5月から、東京・信濃町の千日谷会堂(一行院)を根城にして始まった隔月の公演は、三年半続きました。

私たちと同時に、唐十郎、鈴木忠志、寺山修司、佐藤信などの活躍が始まり、総体として日本演劇史に残る、小劇場運動やアングラ演劇というものが華麗な花を咲かせたのです。

瀬劇活動に関心のある方は私の著した『小劇場運動全史ー記録・発見の会」(造形社)という本がありますのでお読みください。

千日谷会堂はとてもいい条件で使っていたのですが、亡くなった佐藤重臣という『映画評論』編集長の戯曲が書き上がらず、代わりに『LSDとハイミナール味くらべ大会」という破廉恥なことをやって四谷署が調査警告に来たりしたため、追い出される羽目になったのです。

発見の会は、千日谷会堂を追い出されたあと、日本列島をぶらりぶらりと浮遊して、相変わらずのでたらめをやっていたのですが、あるときふと、自分が本当に自由でやりたい放題の芝居を やっているのかと疑問に思うことがあり、それを確かめるために、私は東洋医学の学校に入りました。

瓜生良介




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